私は神の召命を聞いたか? H.Y

今年の修養会のテーマはエレミヤ書であった。エレミヤには二面性がある。一つは、他の預言者と同様にイスラエルの民に対して、警告を発して、主の信仰に立ち返るように伝える姿。もう一つは、神に対して自分の置かれている立場に不平や不満を述べる姿である。特に後者がエレミヤを特徴づけるものであろう。一見矛盾するとも思える彼の二面性をどのように理解したら良いだろうか。

エレミヤは神からの召命を受けた際、一度断ったがそれに従った。彼の神に対する不平は、神の召命に従い預言者としての任務をこなすゆえに出てくるものなのである。神様の命じる通りに預言を伝えたのに、人々から迫害されて孤独になってしまう。神様に対して「なぜ?」という言葉を発したくなる気持ちも理解できるだろう。

そんな彼の姿を見て、どれだけ私は神の召命を聞いているだろうかと自問した。この地球上に生まれたものなら誰でも、神様から期待されて造られて、召命を受けているのだと思う。しかし日々の生活の中で、きっとこうした方が良いだろうなと思うことを、忙しさにかこつけて無視し続けている現実がある。

毎日どれだけ祈っているか。
どれだけ神様と共に時間を過ごしているか。
どれだけ聖書を読んでいるか。
どれだけ賛美をしているか。
どれだけ自分の大切な人に福音を伝えているか。

誰が神の命令に逆らうことができるだろうか。もし神が自分に対して命令してもなお、それを行うかどうかを自分が苦悶しているのであれば、それは神よりも自分の思いが優先されているのだろう。例えば、職場の上司が私に対して業務命令を出したら、それが自分にとって好ましいものかどうかに関係がなく、自分はそれを実行するだろう。それなのに信仰の場においては、いとも容易く私は神の命令に背くことができる。やる前に苦悶するのではなくまずやってみること。不平を言う権利があるのは、神の命令に従っている者だけだ。

神様はエレミヤを召命する場面で次のように語る。「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」神様の命じるところがどれだけ苦しい道に思えても、その先には必ず神様が共にいてくださる。だから私たちがすべきことは、神様を信じてただ従うこと。そして自分にとっての確信が与えられるようにただ祈ることなのではないだろうか。 (所属:日本ホーリネス教団 木場深川キリスト教会員)