【寄稿】ジャンケレヴィッチの怒りの底にあるもの―一つのレスポンスの試み 片柳 榮一

高橋哲哉さんが紹介された V・ジャンケレヴィッチの「われわれは許しを乞う言葉を聞いたか」は衝撃的でした。ナチスを生み出し、いままたその犯罪の時効をそのまま認めようとするドイツなどに対するジャンケレヴィッチの激しい糾弾は、異様なほどのものでした。ジャンケレヴィッチにそのような論文があり、論争になっていることも聞いていました。しかしこれほどとは思いませんでした。ことにドイツを「罪を悔いない国民」と呼び、もし彼らに「後悔」があるとしたら、軍事的敗北に対する後悔でしかないと語り、「許しは、豚のように肥えたやつらや同じように肥えた伴侶たちのために作られているのではない」と、いわば口汚いほど激昂して語る姿は、私には異様に映りました。そのような思いはJ・デリダ(「世紀と赦し」94頁)だけのものではないと思います。

ジャンケレヴィッチについては、私は、森有正の『流れのほとりにて』を学生の頃読んでその存在を知り、畏敬の念を持ってきました。彼の倫理学の講義はいつも打たれる。そこでは倫理は人間の存在そのものに同化し、それを通して、存在をさらに超える何ものかが暗示されている。それはいかなる体系による存在の解釈でもなく、教授の感性と理性が、裸で存在の深みの中に降りて行くと述べています。この現代フランスの最高のモラリストと言える人の、この口汚いともいえる批判は異様なものでした。

確かにこの論文を最初に読んだ時の印象は、衝撃的なものでしたが、読み返して行くうちに、彼の厳しい批判は単に、犯罪者の極悪さ、同調者の怯え、卑怯さへの糾弾を、自らの倫理性の高みから語っているのではないことが次第に見えてきました。彼が見据えていたのは、第一に、現代の悪の問題の深刻さ、とくにナチスの犯罪の底深さ、その憎しみの徹底した組織的計画性のおぞましさでした。そして第二に、この現代の悪に対応し得ていない我々の倫理性の摩滅、軽薄さの告発でした。そして第三にその底に見えるのは、我々がそのうちで生きる「時間」が持っている固有の困難さとでもいえるものです。その過ぎ去りが、本質的にもたらす滅却に対して私たちは、記憶によって対抗しようとしますが、力の差は明瞭です。彼は叫んでいます。このような深淵に立つ場所は、自信に満ちた審問者、詰問者などではないでしょう。「レジスタンス運動家たちに対して、あれらの大量虐殺された者たちに対して……虐殺を免れたわれわれ」と自らを語ります。ナチスによって虐殺されていったユダヤ人たちは、誰からも助けてもらえず、世界中が彼らを見捨てたのだと言います。「幸運にも、新たに迫害される者たちはもはや孤立しません。なぜなら、世界中の民主主義者が彼らの立場とつながっているからです。しかしユダヤ人たち、彼らは孤立していました。全く助けはなかった。この痛ましい孤独、この見捨てられた究極の状態は、彼らの苦難のうちで、一番辛くない側面でない。「国連」も国際的連帯も存在していませんでした。ジャーナリズムは口をつぐんでいました。ローマ・カトリック教会は沈黙していました。

前代未聞の悪と、その中で見捨てられ、殺されていった人々に面して、人は何をなおなしうるのか。高橋さんも強調されたように、この問いに対して、ジャンケレヴィッチは振り絞るようにして語ります。「われわれがなしうること、残された方策はただ一つ、つまり思い出すこと、黙祷すること」です。何もすることができない時、少なくとも、尽きることなく、強く感じることはできる。ジャンケレヴィッチは我々が抱いている感情は、恨みではなく、おぞましさと呼ばれるものであると述べます。それは起きたことの克服しがたいおぞましさ、それを犯した狂信者たち、それを受け入れた無気力な人たち、それをすでに忘れてしまった無関心な者たちへのおぞましさです。

確かにジャンケレヴィッチはナチスに加担したドイツ人たちを厳しく批判します。「許し! だが彼らはわれわれにかつて許しを乞うたことがあるだろうか? 罪人の悲嘆と見放された状態こそが唯一、許しに対し、その意味と存在理由を与えるだろう」と語ります。高橋さんからいただいたデリダの論文では、このジャンケレヴィッチの条件付きの許しに対して批判がなされていますが、ジャンケレヴィッチはそのことを知らないというのではないのでしょう。彼はほとんど不可能と知りつつ、この論文で立とうとしているのは、この人々の存在を覚え、傍らに立つということであるように思われます。辛うじて見据える行為としての「思い出す」なかで、人は辛うじてこの人々の苦悩に触れることができるのであり、その苦悩者の現臨に触れ、苦悩者の傍らに立つことになります。反抗者、共犯者にも「悔恨、告白」を求めています。

こうした言葉には、ジャンケレヴィッチの心の奥底を襲う「震え」が感じられます。彼を捉えて放さないもの、それは「墓のない強制収容所の被収容者たちや帰還することのなかった幼い子どもたちの断末魔の苦しみである。なぜならこの断末魔の苦しみは、世界の終焉まで続くからである」と言われたものでしょう。もちろんジャンケレヴィッチは限りなく困難な場にあることを知っています。一方で、すべてを押し流して洗い去ってしまう時の流れに飲み込まれて我々は辛うじて「在る」のであり、「思い出す」ことの無力な戦いを、彼は嚙みしめています。しかしジャンケレヴィッチは他方で、この論文を「帰還することのなかった幼い子どもたちの断末魔の苦しみが世界の終わりまで続いている」(86頁)という言葉で締めくくっています。そのような終わることのない「事実」が、彼をどこまでも捉えて放さないことを知っています。

ジャンケレヴィッチは自分の時評的エッセイに「Le Presquerien ほとんど無」という題をつけています。私にはこの言葉にジャンケレヴィッチの思いの核心があるように感じられます。おそらく、わたしたちは無とほとんど変わらないほどのもの、在ったのか、無かったのかわからないもの、あるいは在ったとしても、すぐにも跡形なく消えて行くものといえるでしょうが、しかしなお、「ほとんど無と、全くの無の間には無限の隔たりがある」というパスカル的なパンセ(思想、考え)が込められているように思えます。起こったことを思い出すことにおいて、人間は自然と異なっているというだけでなく、「思い起こすことのできる人間をこの思い出しに駆り立てているのは、見捨てられて死んでいった子どもたちの苦悩が世界の終わりまでつづいている」という事実に基づいているように思えます。

世界の終わりまで続く子どもたちの苦悩。これは自然を見る目には、既に無いものです。しかし「起こった」ということは単に過ぎ去って「無いもの」ではありません。この「ほとんど無」に呼びかけられ、目覚めてあることを、ジャンケレヴィッチは引き受けているように思われます。しかもこの引き受け自身、ジャンケレヴィッチが好きな時に止められるような、随意的、気まぐれなものでなく、世界の終わりまで終わらないものに見据えて、耐えているような事柄なのだと思います。そのように人間にはほとんど不可能に見えることに彼は耐えているように思われます。

過去は私たちに、思い起こすことを求めています。それなしには忘れ去られてしまうとジャンケレヴィッチは言います。しかし他方、残虐に殺されていった人々の断末魔の苦しみは世界の終わりまで続くとも彼は呻くように語ります。

過去が過ぎ去り、起こったことは不可逆的に消え去ってしまっており、辛うじて思い出すしかないということと、人々が被った苦悩は決して贖あがない難くいつまでも残るということ、それは矛盾し、両立しえないように見えます。しかしこの解き得ない結び目の固さのうちに、私たちのあらゆる倨きょごう傲と軽薄さを打ち砕いて、慄おののかせるものがあるように思われます。過ぎ去らざるを得ない過去に乞われて思い起こすと共に、終わることのない過去に見つめられて思い起こさざるをえないのだと思います。

私は1973年にドイツに留学しました。ニュルンベルク近くのエルランゲン大学で、哲学科や、神学部の講義に出ていました。この地が保守的なバイエルン地方の、ことにナチス党の党大会が開かれた地としても知られるニュルンベルクの近郊ということもあってなのか、ナチスドイツへの反省をほとんど聞くことはありませんでした。ジャンケレヴィッチが語るような「ドイツの若者が生まれつき持っている、自分たちには恥じるところがない確信」を示すような、ナチスドイツへの無関心が一般的であったように思われます。外国人の我々にもアンネ・フランクやV・フランクルの『夜と霧』からよく知られているような悲劇的なことには、ほとんど無知、無関心というような雰囲気でした。

しかし2002年ドイツに半年ほど滞在することを許され、エルランゲンをも再訪して驚きました。町のいたるところに、30年前には見なかった「ここにユダヤ教の会堂がかつてあった」ということが記念碑的に記されていたのです。この30年の間に何があったのでしょうか。

ジャンケレヴィッチをはじめとする、ドイツに対する厳しい糾弾が続けられたからでしょうか。また「ショアー」が上演されて、衝撃的な事実が無関心を許さないほどの影響をもったからでしょうか。あるいは冷戦が終結し、ヨーロッパ全体を覆っていたソヴィエト・ロシアの脅威への対抗という第二次大戦後の大きな流れによって抑えられていた過去の出来事への告発、凝視が噴き出てきたからでしょうか、その辺の事情について高橋さんから、さらにお聞きできたらと思います。

それともう一つ高橋さんから、詳しくお聞き出来たらと思うのは、デリダ論文で触れられていた現在の世界史的な状況、「赦し」というキリスト教的宗教言語で表現されてきた事柄が、宗教・文化を越え、また国民国家の審級の彼岸へ突き抜け、グローバルな世界全体を包み込む意義をもつようになったということです。「赦しの『世界化』は進行中の巨大な告白の場面に、すなわち、潜在的にキリスト教的な、痙攣=回心=告白(convulsion-conversion-confession)に、キリスト教会をもはや必要としないキリスト教化の過程に似てくるでしょう」(J・デリダ「世紀と赦し」91頁)。デリダが「ストア主義とパウロ的キリスト教の接木から生まれた世界市民主義の伝統」と言うものの現在の動きです。あるいは現在をも越えて、さらにデリダが未来に見ている「司法的なものにはもはや属さないものを、政治においても尊重する」そのような「来るべき民主主義」(同論文、105頁)として考えていることについてもです。確かにある意味で、私たちが高橋さんからお聞きした一連の講演全体が、この問題の解明に費やされていると言えるのでしょうが、今後の「エチカの会」の中で、さらに詳しく聞かせていただけたらありがたいと思っています。

そのような世界全体の流れの中で、日本がどのようなところにあり、何をなすべきか、それが私たちに問われていることであると思います。いくつか思い出すことを述べながら、考えてみたいと思います。

1990年代の始めに、戦後の日本の歩みに関して深く考えさせられる記事を読んだことがあります。東西冷戦がソヴィエト連邦のあっけない崩壊により終結し、世界には新しい秩序が築かれる時期であり、その中で日本はどのような役割を果たすべきかが問題とされました。

崩れた1990年の少し後の頃だったと思います。私にとって自分の生きている間は終わらないであろうと思われた冷戦、核戦争の危機を孕んだ冷戦が終わり、これからは世界平和が実現するだろうとの漠然とした希望を人々は抱いていたと言ってよいでしょう。勤めていた大学の図書館に、ドイツ留学時代よく読んでいた辛口の政治雑誌『シュピーゲル』がありました。ドイツ語を忘れないためということもあって読むようにしていましたが、その頃たまに日本について書いている記事が目にとまりました。例によって極めて辛辣なものでした。その記事の記者は、冷戦が終わり、戦争の危険が大幅になくなり、皆ほっとしているが、これから最も厳しい困難に直面するのは日本だろうと書いていました。また例によって意地悪な書き方だと思いつつも、なぜそんなことを言うのだろうと私は怪訝な思いでした。この記者は次のように説明します。戦後ドイツは、東西に引き裂かれ、民族の分裂という悲劇を引きずり、冷戦の最前線に立たされてきた。しかしアジアでは東西の対立は朝鮮半島に置かれ、朝鮮戦争が勃発し、対立の最前線は韓国が担わされ、日本は後方支援の物資供給基地の役割をして、その結果経済的利益を享受してきた。戦争責任も冷戦の中でうやむやにされ、アジア諸国への賠償は、共産主義諸国との軍事的対立の財政的支援、補強のために使われたにすぎない。本当のアジアの人民への賠償はほとんどなされていない。東西冷戦で最も得をしたのは実は日本なのだ。そしてこの冷戦が終わり、日本が冷戦の旨味を享受する時は終わったのであるから、これから日本は苦境に立たされざるをえないと、いつもの『シュピーゲル』のいじわるな言い方で述べていました。いつもの「シュピーゲルの斜めな見方だ」と思いましたが、数年のうちに、この見方がある種、的を射たものであることが明らかになってきました。それからの日本はバブルの崩壊に続く「失われた10年、20年、30年」とまだ終わらない苦境のうちにあります。確かに表面上の苦境の原因は、バブルの破裂にあるのでしょうが、根本には冷戦終結によってアジア諸国が軍事費を大幅に節約させ、経済的基盤の整備につとめ、体制の壁を越えて貿易を活発にし、相対的に豊かになる中で、日本は相対的な優位さを失ってきていることにあると思います。さらには日本がアジアの中で、いわゆる「大東亜共栄圏」を築こうとして始めた侵略の本当の謝罪、清算を為していないことが大きな障害になっており、これからも繰り返し問われてゆくことになると思います。それが『シュピーゲル』が意地悪に語った「日本の困難」の実態なのだと思います。

戦争責任が曖昧にされ、アジアの多くの人々が、日本は本当の意味で、まだその侵略の償いを果たしていないということに関して、森有正さんの妹さんの関屋綾子さんが語られた衝撃的な話が思い出されます。1970年代のころ、関屋さんは日本YWCAの代表のような仕事をされていて、シンガポールのYWCAから来られた女性を広島に連れていかれた時のお話でした。日本に来てから頭痛に悩まされたまま広島に来たと語る、明らかにやつれた顔をして現われたその人をつれて関屋さんは原爆資料館を案内されたそうです。通常資料館を見学すると、多くの人が、原爆投下の悲惨な様を示されて動どうてん顚するそうです。しかしこの女性の反応はまったく違ったものであり、関谷さんはそのことに仰天したと言います。この女性は、突然、「当然だ、この報いは当然だ」と歯を食いしばった表情で、低く呟いたそうです。驚いて関屋さんがこの女性に、生きてこられた中で何があったのかを尋ねると、すこしずつ身の上話を語られたそうです。この女性の夫は、日本のシンガポール占領の時、日本軍に捕らえられて拷問死させられた中国系ジャーナリストであったということです。日本への旅行自体がこの人にとっては、一大決心であったでしょうし、日本へきて以来ずっと続いている頭痛の原因も、許し得ない日本の過去への糾弾の気持ちであることは明らかです。関屋さんは自分が、被害者としての「日本」になお閉じこもっていたことをあらためて知らされたと述べていました。このように日本を、そして「ヒロシマ」をもこのように見ている戦争被害者がアジアには多くいることに気づいていなかったと語られました。聞いていた私も動顚させられました。

2015年、当時の首相安倍晋三氏は米国連邦議会上下両院合同会議で演説し、拉致問題への解決を訴えました。そしてそのあと、下院議長のペロシ氏から次のような質問を受けました。「安倍氏は拉致された方々が奪われた人権の回復には極めて熱心であられるようだが、日本が朝鮮占領下で踏みにじった人々への人権に関しては、その擁護、回復については語られなかったのはどうしてか」と。思わぬ質問に当惑し、「占領下の問題は過去のことであるが、拉致された方々は現在生きておられる人の人権です」と苦しい答弁をしたのに対し、ペロシ氏は厳しく切り返しました。「人権ということに関しては、過去の亡くなられた人と現在生きている人との間に貴重さの相違はありません」。安倍元首相は、目を白黒させて沈黙してしまいましたが、それを報道する衛星放送が極めて印象的でした。私はそれを聞いていて、世界が問題にしている人権の次元の深さ、重さを思わされました。すでに過ぎ去ってしまった過去を、現在と同じ重さで問題としている次元の問題の深さに、元首相同様、自分自身追いついていないことに呆然とさせられる思いでした。さきほどデリダが問題にしていると言ったのは、このような深さをもった世界史的潮流であるように思われます。

戦争中日本にやってきて京都で中学生として学ばれ、やがて召命を受けて牧師となり、ながらく川崎で伝道活動をされた李仁夏(イインハ)という尊敬する先生から学んだことをお話しします。先生は明治以来の日本と韓国・朝鮮の関係史を調べる中で、明治十年のころ、日本のキリスト者が朝鮮半島のキリスト者を招いて開いた百人規模の大会に注目されました。先生が言われるに、その資料を読むと、そこでは日本のキリスト者が朝鮮から招いたキリスト者をいわば文化的な先進国からの客人として迎え、晴れやかな尊敬の眼差しで、語り合っている様子がうかがえるとのことでした。しかし、そのような尊敬の眼差しは、日本が大日本帝国憲法を発布して帝国の体制を固め、朝鮮半島を占領しようとの意図を明確化しだすと共に、失われて行き、韓国併合の後には、キリスト者自身の間でも、蔑視の態度が次第に鮮明に露わになってきたと語ります。その後の百年以上にわたる両国の関係の上には、この歴史の暗い影が色濃く残っていることを私たちは知っています。慰安婦、徴用工の問題がその氷山の一角にすぎないような、侮蔑と無関心の影は今も私たちの足元に及んでいます。確かに敗戦後しか知らない私たちには、直接朝鮮占領の責任はないと一応言えるでしょう。しかし明治の初年にはなかった、この侮蔑と無関心の態度は、その後の歴史を背負って生きている現在の日本の私たち自身のものです。私たち自身がその影の中を生きており、決して私が生まれていなかった過去のことだから責任はないとは言えません。百年以上前にはもっと違った晴れやかな自由さの中で、両国の人々は語り合っていたのです。そのような態度を、私たちが日本国民として現在持っていないことに対しては、私たち自身が選んだ在り方、行動として、私たち自身の責任が問われていると言わざるをえないように思われます。
(日本基督教団 北白川教会員)