寄稿

存在の使命 金美淑

信仰団体であり使命団体である共助会は、今年で日本基督教共助会が105周年、健在であれば韓国共助会が32周年を迎える年であります。「人を恐れず、神を仰ぎ、友を信じて決死の一途をたどるべく」という創立者の森明先生の言葉が、今こそ励まし深く重みをもって語られてくるように覚えます。共助会が一世紀を超える歩みを続けて来られたのは先ずは神の恵みであり、森明先生の信仰精神がいかに純粋に深く高くあったかを改めて覚えるものです。私は罪人の頭のまま2012年に韓国共助会に入会し、共助会の交わりの中に加えられて12年になります。その間良き多くの友が与えられ、イエスを中心に磁石のように互いに引き合いつつ信仰を共に支えて来たことに深く感謝しております。共助会の精神の一つであ「キリストに在る友情」が単なる友情と異なる理由は、森明先生の言葉を借りるなら、「友をして如何にしてキリストに近づかしめ、キリストにおいて新しい人生をいかしめねばやまないところの友情」であると答えられました。その意味で共助会は友情の宗教だといっておられます。自分は京都大学の留学時代に小笠原亮一先生に出会い、先生を通して共助会を知ったわけで、先生の人格と信仰から見て(僭越ながら)共助会は謙遜で純粋な信仰団体だと思っていました。入会してからは力不足の通訳、翻訳、修養会に参加などを通し日本各地にある友、韓国にある友を多く得られ、そのお祈りの支えの中にあって今日まで至ったものであります。2018年からは青森の自宅を礼拝の場として故小笠原 順さん、川西健登先生ご夫妻、小笠原 浩平さんをお迎えし、共に日曜日の午後の礼拝を始め、礼拝にかける幸福者の恵みに与りました。その恵みの音信は桂山荘礼拝記録集に綴り、共助の友と共に喜び合いました。そして去年の4月、私たち夫婦は日本基督教団 藤崎教会(青森県南津軽郡に所在)に遣わされまもなく3年目を迎えます。

以上、共助会を知り、共助会に知られて来た自分の小さな歩みを述べましたが、振り返ると自分の足りなさを許し、今日まで守り導き給うた神の限りなき恵みと御手を心から感謝すると共に、これから如何にして心を信仰に立たせ、その御愛に応えて行くかを明確に考えなければなりません。本来一つの魂の存在を重んずるにおいてキリスト教に勝る深さを持ったものはないでしょう。一人一人が神の前に一個の人格として、キリストの花嫁として求められ、立たされているのです。それほどイエスは一つの魂の深い問題に接近し最後までその魂を愛し抜かれました。イエスの愛は極めて深く個人的、選択的なものでした。私はこれを思う時、小笠原亮一先生を通しイエスを経験した者であります。深い淵の底にいる私が御光によって取り上げられ、弱点なる身で天の栄光のために働く者となっております。先生不在の13年間、自分を取り巻く環境や状況が大きく揺れる中で、「主よ、我誰にゆかん」と十字架の主を仰ぎつつ祈っていると先生もそこで祈っておられるような思いがしました。キリストにある友情は死んでも強く結束されるもので、否死んでからが勝負なのかもしれません。永遠の命をいただき、友との永遠の友情に生きる私たちは至難の問題であれ、試練であれ、内にキリストの愛に迫られ、時代に対する憂いと愛とに燃え福音の戦いに出なければならない存在です。「君貧乏でもいいから最後まで、キリストに忠実であろうではないか」、「僕と腐れ縁だと思って一緒にやってくれ給え。併し何時か必ず喜んで呉れる時があると思う」。

この言葉は、ご病床において森 明先生(亡くなる7カ月前)が奥田成孝先生にいわれた言葉です。友情に十字架を負って主にある使命のために進もうではないかと自分にも切実に語られているようです。どうか先生の主に対する忠誠心に舟を捨てて従う無条件反射の信仰が与えられますように祈るものです。

今、共助会のことを思うと高齢と病気のため集まるのがだんだん難しくなっており、それによって友情の深まる機会が少なくなってきました。さらに韓国共助会は休止状態で委員長の尹鍾倬(ユンジョンタク)先生が亡くなった今、新メンバーが新時代を開いて行かない限り、27年の歴史で幕を閉じるほかありません。共助会も反省を含め皆が知恵を絞り再生に向けて首を集めなければならない時期に到達しているのだと思います。自分もその責任者として悩んだり涙を流し祈るはずの者が、時には逃げたり時には背いたりしていたことを恥ずかしく思っております。次にご紹介する文はその悩みの中で書いた二つの文章です。一つは飯島先生宛ての手紙ともう一つは、7月30日に桂山荘礼拝で話した内容の一部です。どうか、不肖の信仰の者を憐れんでくださいますように。

今年8月15日に、飯島先生から来年3月に行われる韓日共助会修練会へ「ぜひ、ご参加を!」という電話を受けました。それから一週間後の8月23日、私は次のような内容の手紙を先生に書いています。始めにその手紙の内容をここでご紹介するのをご了承ください。

「今回、共助会員になられた裴貞烈(ペジョンヨル)先生の快挙は、天には喜び、地には平和と言っても言い過ぎない韓日共助会への天からの贈物だと思います。それは裴先生の決断を走らせた石川光顕先生と裴先生ご一家の主にある友情の結実なのでしょう。新しい会員になる方に恥ずかしくない共助会になるためにもいろいろな模索が切実です。共助誌を保存版にしてネット上でいつでも、誰でも、という開かれた歴史にしておいたのは非常によかったと思います。韓国共助会の委員長である尹鍾倬(ユンジョンタク)先生が天に召され韓国共助会は機能どころか記録でさえ残っておりません。日本に来て11年、今まで私の共助会への思いは、韓国に訪問するたびに尹先生をはじめ洪彰義(ホンチャンイ)(現・101歳、香隣教会)先生、姜信範(カンシンボム)(現・83歳、堤岩里教会)先生、私の長女の大学の先生である裴 貞 烈先生(長女の結婚式の祝辞をしてくださった)にお会いするのを楽しみにしていた素朴なものでした。それでも日本に帰る際には、千軍万馬を率いて凱旋する戦士のような顔で帰れたのです。

先生たちに無条件に受け入れられ、対等に話し合う、何でも打ち明けて悩み祈り合う、まさにこの世にこういうイエスの国があるだろうかという神の国の標本としての会を実感していました。ご病気の尹先生が亡くなる5か月前(2019年6月12日)に、共助会の皆さんと尹先生のお見舞いに大邱(テグウ)へ向かった時、私は正直に、ああ!韓国共助会はもう寿命が尽きたのだと思いました。そしてそれはそれでいいのではないかと思ったのです。それからコロナの3年間、移動の制限を強いられ、ようやく尹先生のお墓参りが実現できたのは去年11月でした。思えば3年間半、大阪の施設におられ二回のコロナの感染で小笠原亮一先生のところへ旅立った小笠原順奥さん(今年3月15日召天)、引き続き6月には長年の闘病を通し黄金色の神の御手に包まれつつ天国からのお便りを共助に書いてくださった永口裕子さんの消息はいまだ私たちの心に寂しい影を落としております。

共助会は百年の節目を越え、これからも先達の方々に見倣い乗勝長驅の戦士としての役目を果たして行くべきです。ところが、見えない様々な課題があるわけで、それを見直し改善しなければただの会になりかねません。太字の日本基督教共助会と細字の韓国共助会がどうやって均衡を取り、支え合い、一冊のイエスの物語を書いて行くか、埋めて行くか、それを深く話し合い、悩んで行かねばなりません。共助会も高齢化になり、力が劣って来たかのように見えますが、不思議にも次世代の人々が来るようになったことは心から歓迎すべきことです。その動きの中で今回の裴先生の入会はいい兆しだと思います。先生の電話を受け、来年3月の韓日共助会へのお誘いにどう答えればいいのか迷っています。先ずは、自分の現状を先生にお知らせしなければと思い原稿を同封致しました。しかし私のことは差し置いて、裴先生の力量なら修練会の開催は充分、可能だと思います。若い学生たちに声をかけ、史上大規模の修練会になる可能性も排除できません。想像するだけでイエスの前に立つような感激と恐れを覚えるものです。「行って来い!」と小笠原先生、林律先生ご夫妻に背を押されているような気もいたします。しかし自分のことを思うと、多忙と無能力は言い訳で韓国共助会の再構築、再発足を心から真摯に願っているのか、尹先生と和田先生が走り抜いた「和解」というバトンを最後まで取り損なわない自信はあるのか、という問いに悩みつつ自分の信仰の薄さを慨嘆しているところでございます」と。

次は、今年7月30日に青森のアパートで行った桂山荘礼拝のお話の一部分になりますが、それもここでご紹介するのをご理解ください。2022年4月から日本基督教団 藤崎教会に遣わされ、その1年間半の歩みを振りかえりながら感じたことを書いています。偶然、藤崎の地にいて実存を生きている私に「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ8:29)と言われるイエスの本質の問いに葛藤しながら16カ月間を歩んで参りました。今もまだ早朝から飛んでくる小鳥のさえずりは何時から始まるのか、昼間、牧師館の軒下にこっそり隠れている蜘蛛は何時から動き出し糸を張って行くのか未知で神秘でミステリアスな神の領域に近づくことはできません。ろばに乗ってエルサレムに入城したイエスの道に敷かれていた群衆の服と木の枝になるつもりで主の宮で朝を迎える者となりました。いやでもレビ人のような宿命に従い「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」(コリントⅠ9:27)といったパウロの徹底的な節制の姿に見倣おうとしていました。しかし日が経てば経つほど信仰を可視化しようとする自分の欲と、内面化しようとする自分のガリラヤがあってどうしたらいいのか泣き崩れと自己欺瞞の日々が半分でした。その時の正直な気持ちを友達のスヨンに私はこう綴っております。

「もしかしたら、自分の中の信仰はまだ生まれもしなかった母胎の赤ちゃんのまま閉じ込められているのかもしれない。一日を生き、一日の生の皮を57年間繰り返しむいているのにも関わらず、自分は、母胎に閉じ込められている赤ちゃんのようにまだ信仰というものが生まれもしなかったままナイル河畔、パピルスの籠の赤ちゃんモーセのように教会に流されて来たのかもしれない。自分に対する失望の念を今日も御手に委ね、教会の窓のサッシ枠に生えている苔の命で生き抜こうとしている」。

藤崎に来て2回目の夏を迎えておりますが、今思うのは「あのガリラヤ湖畔へ行きたい!」という願いがだんだん強くなっていることです。夜明けまで一匹の魚もとれないで疲れ果てている弟子たちに「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(ヨハネ21:12)といったイエスのやさしいまなざしを注がれたい、何の責めも自己顕示もせず無条件の赦しと愛が示された現場、弟子たちもイエスであることを知って「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった、その赦された者の確信と決心がつく現場、あのガリラヤの湖へ行きたいと切に願っているのです。そこでは何の説明も弁明も理屈も聞こえない、ただ「どぶん!」というシモン・ペトロの湖に飛び込む確信の音だけが海辺に響いていく、その赦しの波紋が弟子たちの浜辺の片足に波打ってくる、その、もの静かで厳粛なガリラヤの海辺で朝を迎えたいのです。信仰は無条件に受け入れられる者の賜物です。憐れみの神がこの貧しい者にも御顔を向けてくださいますように。ガリラヤ湖畔でイエスと弟子たちが朝食をとっていた恵みの光がここ主の宮にも差し込まれますように。そしてこの世の激戦が終わり、主がそなえてくださる海辺の食卓を囲む日には、主の黄金色に輝く手と顔を仰ぎ見る感激の者となっていることでしょう。これからもここ主の宮でガリラヤ湖畔の恵みの朝を待ちつつ祈ってまいりたいと思います。

以上、二つの文は今回の発題の内容として相応しくない(特に後者の方)ような、気がしますが、むしろ自分は後者の方に重みを感じご紹介いたしました。ご存じの通り、共助会は教会に仕えるための団体です。現に、教会も共助会と同じ現状に封着しております。高齢化、信仰継承者、運営など、時代の壁にぶつかっております。このまま、教会はどこに行くのであるか、どうなって行くのであるかという問いが次々と出されているところです。内的、外的な問題はこれからも山積みになって行くでしょう。教会と共助会を考える時、先ず頭に浮かぶのは「存在の意味」です。「自覚と実践」を貫いて使命に生きた信仰の先輩たちの足跡が私たちの不信仰と怠慢によって消えてしまうことほど不遜なことはないと思います。今こそ徹頭徹尾の信仰姿勢に立ち、険しい現実を冷静に見抜き、主の力と聖霊の導きを乞わねばなりません。答えがないのが答えの如く、忍耐と従順に尽きて信仰不動の十字架を負わねばなりません。そのような共助会と私でありますように!

最後に、共助会の今を考える時、小笠原 亮一先生の言葉からお聞きしたいと思います。

このような歴史的時点に立って、贖罪的自由人が歩まねばならない道は明らかです。贖罪的自由人とは、自己の内面的罪と深く結びついた歴史にかかわる罪を、十字架の主の前に告白し、罪の力から自由にされつつ、主と共に世の罪を負いつつ、十字架を負いつつ歩む者のことです。京都の共助会の中では、飯沼二郎先生が長年在日韓国人の人権の問題に取り組むと共に、国立大学の中に初めて韓国近・現代史研究会をつくり、そこから今日多くの若い研究者が輩出しています。また、就学の機会がなかった在日韓国人一世のオモニたちが文字を学ぶ京都九条のオモニ学校では、今回の修練会に参加した多くの日本人青年たちが教師として加わり、オモニたちのたどった苦難の歴史を学びつつ、オモニたちと美しい出会いをしてきました。(中略)また、京都大学で行われている共助会の聖書研究会の集まりで、韓国から留学していた若い学生の帰国に際し、中国人留学生が次のように呼びかけました。「今ここで、日本の京都で私たちは出会っているが、いつか韓国で、また中国で、このような集まりを持ちたい。今はそれはできないが、私たちが生きている間にそれは必ず実現するであろう」。(中略)私たちは、韓国の友たちと共に、いつの日か、中国で、今回のような修練会を持つ日が来ることを祈り、待ち、信じたいと思います。その日こそ東アジアに主にある民主・平和・人権が実現する希望の日でもあります」。

(歴史に生きるキリスト者 基督教共助会編 68~69頁より)

(日本基督教団 藤崎教会員)