ベルギー便り2 林 香苗
コルネリウス・ヤンセンは、17世紀にイーペルという都市の司教だった人です。彼はアウグスティヌスの研究をし、その著作に大きな影響を受けました。ヤンセンによると、善行ではなく神の一方的な恵みのみが人間に救いをもたらします。そして、神から選ばれない多数の人々は罪に定められることが運命づけられています(Escholier)。
死後、彼の著作が出版され、その考えに共鳴した人々はヤンセン派と呼ばれました。イーペル大聖堂にはヤンセン派の十字架があります。現在出席しているイーペルにある教会の牧師によると、一般的な磔像では、人類全体の救いのために死んだことを示すためにイエスは横に広く手を伸ばしていますが、ヤンセン派の十字架では、救いが限られた人々のためであることを示すためにイエスは斜め上に手を伸ばしているそうです。また、イーペル大聖堂の床のタイルの一枚はヤンセンの墓石となっています。下敷きを一回り大きくしたくらいの控えめなサイズで、亡くなった年と十字架のみが彫刻されており彼の名前すら書かれていません。歴代のほかの司教のお墓に比べると装飾も段違いに少なく簡素です。教会からは以下に挙げる彼の5つの考えが異端視されました。
1 神の戒めは正しい人がどれほど努力しても守ることはできない。これらの戒めを守ることを可能にするような恵みは与えられていない。
2 (アダムとイブ以降の)堕落した状況にあっては、誰も神からの恵みが与えられた場合、それに反抗することはできない。恵みを受け取らざるを得ない。
3 (アダムとイブ以降の)堕落した状況において、善行や悪をなすためには、すべての外的制約(義務や強制)から自由でさえあれば十分である。内的な自由までは必要としない(人間には真の精神的自由は望みえないという前提があります)。
4 半ペラギウス派は、すべての行いには、神からの恵みが先行して必要であると認めた。しかし、人間はこの恵みを受け取らない自由を有すると主張することで異端に陥った。
5 キリストは全人類のために死んだという主張は、半ペラギウス派的な異端的考えである(Forget)。
上記3番目の考えに則ると、外的制約に縛られている行動は、神の前で善いとも悪いとも言えない中途半端なものとなります。人の眼には善行に見える行動であっても神の眼には善行には見えないということでしょう。外的制約に何を含めるべきかについてはいろんな意見があると思いますが、文化、制度、習慣、人間関係を含めることは妥当です。これらは社会からのプレッシャーとして人の行動を相当な程度規定するからです。それらから自由であることは不可能なので、人の行動はすべて外的制約のもとで為されたと言えます。人が外的制約に縛られて行った言動の成果を比較し合っている様子は、神の眼にはどんぐりの背比べをしているように映るのではないでしょうか。
人は、ヤンセンの言う堕落した状況にあってさえも善く正しく生きたいという願いを心のどこかで持っているので、どんぐりの帽子を少しだけほかよりも高くするために生きるのはもったいないことです。願いを大切にするのは難しいことですが、善行は救いに影響しないという立場をとるのであれば、やるべきだと心から思うことや心を惹かれることに取り組まない理由を見つけることもまた難しいでしょう。
彼の考えによれば、人生に失敗しようが、望んでいたものが手に入らずむしろこれまで得てきたものが失われようが救いには影響しません。そうであるならば、肩の力を抜いて神や人に出会いたいという思いが湧き出てくるような気がします。自分自身にさえも隠そうとしてきた思いに目を向けることがいくぶん怖くなくなるように感じます。「善行は救いに関係ない」という主張を現代の世俗化した社会風に言い換えるのであれば、「意志と努力は人の価値に影響を与えない」となるかもしれません。この世界で何者かになることと救いは全く関係ないという彼の考えは、確からしいと私には思えます。(日本基督教団 松本東教会員)
参考文献
Escholier, Marc Marie. “Cornelius Otto Jansen.” EncyclopædiaBritannica, Encyclopædia Britannica, inc., www.britannica.com/biography/Cornelius-Otto-Jansen#ref239269. Accessed16Sept. 2025.
Forget, Jacques. “Jansenius and Jansenism.” The CatholicEncyclopedia. Vo1. 8. New York: Robert Appleton Company,
1910, www.newadvent.org/cathen/08285a.htm.
