父 楠川 徹の思い出 楠川典子(長女)楠川 幸子(次女)

父の葬送式で思い出をスライド付きで話そうと、実家にある古いアルバムをいくつかめくってみました。私たち姉妹にとって父の最初の記憶は60年代にロンドンに駐在していた頃のはずですが、母が撮った白黒写真以外には残念ながら父のイメージも会話なども思い出せません。その後ドイツに移ってからはカラー写真が多々あり、思い出も鮮明に残っています。この頃の父はかなりリラックスしていて、ヨーロッパの長い夏休みを利用して一家で旅行をしたり、海で私たちが初めて泳ぐのを教えてくれたり、寝る前に本を読んでくれたり、家のベランダから見える柳の木の絵をクレヨンで描いてくれたり、と様々な父との思い出が残っています。子供時代に父と一緒に過ごした時間が長かったのは本当に幸運でした。 また、この時期の写真には我が家に人を集めて楽しむ父の姿がたくさん写っています。銀行で父と働いていたドイツ人や日本人の方たちが所狭ましと応接間に集まり、父は果物を運んだり、くじ引きをしたり、りんごの皮をどれだけ切らないで長くむけるかの競争をしたり、ピアノの連弾をしていたのを覚えています。そんなお客さんがある時、私たちの部屋に入り込んでおもちゃを壊したので大事になりましたが、父は「そんなに怒らず許してあげなさい」と子供であってもに寛容であることを期待していたようでした。

その後70年代に東京に戻ったあとは父の仕事が忙しくなり、国外への出張、週末にはゴルフの接待などで私たちと過ごす時間が限られていました。家族で撮った写真もほとんどありませんが、葬送式の後に高橋衛さんからは仕事仲間と過ごす父の写真をたくさん頂き、野々山徹さんからは父が米国上院で日本の銀行事情を説明し質疑応答にあたったこと、また橋本徹さんからは父と一緒にエコノミストの記事を読んだりしたことを伺い、私たちの知らない父の一面を垣間見ることができました。

80年代後半には私たち姉妹はそれぞれ大学院で東京を離れ、海外での就職そして結婚生活を進めました。家族がバラバラになるのはおそらく父のプラン通りでは無かったにしろ、寛容に応援してくれて各自の道を気兼ねなく追求させてくれました。

引退後、父は70歳を過ぎて自動車学校に通い、免許をとって軽井沢と東京をマイカーで行き来する時間が多くなっていました。初心者マークと紅葉マークというちょっと怖い組み合わせだったのを覚えています。軽井沢では橋本さんと野々山さんとに引き続きお付き合い頂き、軽井沢追分教会でもご一緒させていただきました。好きな庭仕事や読書をする時間ができて、時にはイギリスから神学書を取り寄せたり、共助会の雑誌に随想を寄稿させて頂くこともありました。 相変わらず人を集めることが好きで、家族が揃うと会食、また奥様を亡くされて一人になってしまった何人かのお友達を集めて月に一回は会食会をしていた父です。

2001年に初孫(長女の息子)の杜里が生まれ「Tori とToruでは一文字違いだ」と喜び、杜里が育つと大好きなオルガンの弾き方を説明したり、戦時中にティーンエイジャーだった自分の経験を話したものでした。

五年前に父の肝臓がんが発見された時は、切除できない場所にあったため主治医は様子を見るだけの姿勢でいました。私たち姉妹は当然何か治療のオプションがあるはずだと追求したところ、ある晩父から電話があり「先生が悩んじゃって可哀想だから、あまりプレッシャーをかけるのはどうかと思う」と言われました。自分よりも人の心配をする父でした。オプションを理解した上で、父は結局のところ一切がんの治療をしないと決断し、その後は病院への出入りが多かった五年間でしたが不思議と肝臓の機能は低下せず、大好きな会食も間遠ではありましたが楽しめました。 晩年は東大同期の友人は中村稔さんだけとなり「二人だけになったね」と言いながら電話でお互いに励まし合っていました。

1927年5月31日、父の生まれたその日のニューヨークタイムズの第一面にリンドバーグがニューヨークからパリへの単独飛行を終えて帰ってくるという記事が載っていました。父もそれにちなんでか、世界を飛び回り、世界観の広い一生を終えました。私たちは子供の頃から世界が広いこと、また常に人を理解し、人に対して寛容でありたいことを教えてくれた父に感謝しています。

家にはいろいろな版の聖書がありますが、父が使い続けたのは昭和9年にいただいた聖書(もちろん文語体)で諸々の聖句の横に線が引いてありました。そこに最近挟んだのではないかと思わせるような白い紙のしおりが挿してあるのに母が気づき、開けてみるとガラテヤ書の頁で、線の引いてあったのは次のところでした

 「主イエスキリストの十字架の他に誇るところあらざれ」

(長女:クレストウッドテクノロジー社 社長)

(次女:英国ケンブリッジ大学 特命教授)